☆なんていうか、ノリで
時は2月上旬、朝森が夏コミ申し込みを終えた辺りに遡る…
「これで夏までゲーム製作三昧なわけだが…体なまるよなぁ」
私はお世辞にも運動神経が良いとは言えない。しかし、体を動かすことに対する欲求は人並みにあるつもりだ。
だから、春休み中、部屋にこもって製作三昧では、どうも物足りないと思った。
「何かアクティブなことしてみたい。けど、海外旅行は時間も金も無さ過ぎるし…」
実は世界一周に行く前は、「世界一周後の春休みは、行きはシベリア鉄道、帰りはシルクロードな旅しよう」などと思っていたのだが、
新たに興味を持った様々なことがあって、とりあえずいいかな、と思うようになった。
・なるべく近場で
・アウトドア的なことを
・ネタになればなお良し
の理念で色々考えてたら、ふと思い浮かんだのが、
「国内のマラソン大会に参加」
であった。何を隠そう、私は2008年1月1日、初日の出をめがけたフルマラソンを無事成功させている。しかも冬コミ後に。
こんな僕でも参加できるマラソン大会は無いのか…早速チェックしてみる。
その際の主な参考サイト:『RUNNET』
日本では毎年数多くのマラソン大会が開催されている。距離の長短はあれど、同人誌即売会と同じくらいの勢いだ。
参加費は数千円。締め切りは、大きい大会ほど早く、小さい大会ほど遅い。検索してると、何か、色々と親近感を覚えた。
開催1ヶ月くらい前でも間に合う大会は結構限られていたが、その中でも注意しなければいけなかったのが、「時間制限」であった。
つまり、「何時間以内に完走しないと失格ですよー」と言うものである。フルマラソンだと、5、6時間が相場。
もちろん、オリンピック代表選考対象の大会はもっと短い。時間制限が、そのマラソンの出走者のレベルを表していると言っても良い。
朝森のベストタイム(と言っても完走は1度きりだが)は、6時間29分だった。
でもこれは、冬コミ後直行・ちょっとしたリュックサックを背負って走った結果だ。だから、体力満タン・手ぶらなら6時間は切れると考えた。
そこで、時間制限6時間の大会を調べていく。検索結果は、ある一つの大会を表示していた。
『たねがしまロケットマラソン』
「…へぇ、種子島で、こんな大会あるのかぁ」
種子島といえば、鹿児島県に属する、鉄砲伝来地として知られる島だ。
あまり目立たないかもしれないが、実は南北約60kmと結構大きな島だったりする。多くの大会で折り返し地点が設けられている中、
この大会のフルマラソンでは、種子島の北から南まで真っ直ぐに突っ切るコースとなっている。
「これなら走っている間、景色が変わって面白いだろうなぁ」
根っからの旅好きである私だからこそ、その点に強く惹かれた。
加えて、はるばる離島に行ってマラソンしてくる人間も珍しいだろう。これは十分ネタになる…
思い切って、申し込みを済ませた。
☆準備
なにせフルマラソンを走るのだ、ぶっつけ本番でいいはずが無い。ベストを尽くさないのは、参加料をドブに捨てるのと同じだ。
まずは練習に励んだ。と言っても製作が忙しいので、6日に1回。初日の出の時と同様、回数を重ねる度に少しずつ距離を長くしていく。
8.4km、16.8km、25.2km、33.6km…走っているうちに、大体自分のペースみたいなものをつかんでいく。
限界が来るまでであれば、どれだけ走っても、ある一定のペースに落ち着くようだ。いやむしろ、一定のペースの方が走りやすくてよい。
「6日に1回」のルールは、製作にハッパをかける要因となった。
走ると決めた2日前くらいから焦りだして、その6日分のノルマをこなす。
徹夜でノルマを達成したら、少しだけ寝るorそのまま走りに出かける。帰ってきたら丸一日爆睡。その後2,3日は放心状態。以下ループ。
こんな生活を1ヶ月は続けた。
そんな体に鞭打つトレーニングの合間を縫って、種子島への渡航方法を模索した。
どうやら、種子島に行く現実的な方法は、
・鹿児島からフェリーに乗る
・大阪空港から飛行機で直通
・羽田空港から飛行機で。但し鹿児島空港経由
の3つのようだ。
私には切り札があった。「マイレージ」と言う名の。世界一周を経て、JALで貯めた約25000マイル。
いつかは消えてしまうこのポイント、今使わないでいつ使うのか。
原則として、国内線1往復の航空券は、15000マイルでゲットできるという。早速ネットで申し込んだ。
後は当日、マイレージカードを提示すれば、搭乗券が発行されるという仕組みである。
世界一周に行ったおかげで、(交通費は)タダでもう一回旅行が出来たのである。
☆いざ、本番。
3月21日に大阪から種子島に向かい、観光などをする。この期間については次回の「おまけ」で述べよう。
…さぁ、3月23日がやってきた。曲がりなりにも、この日まで努力を重ねてきたのだ。体調良好!気合満点!!
だが…
天候不順…
種子島は隣の屋久島同様、天候が崩れやすいことでも有名なのは知っていた。
でも、よりによって今日、こんなに降ることはねーだろ…
せっかく前日に招待選手の小崎まりにサインしてもらった帽子をかぶっても、あっという間に文字が消えてしまう。
とはいえ、台風が吹いても、やって欲しいと思っているのは私だけではなかっただろう。
なにしろ大会参加者の3分の2は島外からの参加者。フルマラソンに限ればもっと高い割合だ。
大枚はたいてわざわざ走りに来たんだ、ここで諦めたら何が残ると言うのか!?
そんな天候ではあったけれども、午前9時。緑の回廊公園を、300人を超える勇者達が、一斉に飛び出していった。
火縄銃の銃声とともに。
スタートしてすぐに、集団は4つに分かれた。
先頭集団は、さほど多くは無いが、間違いなく3時間切りを狙う玄人たち。
次に、「3時間30分」と書かれたゼッケンを付けたペースメーカーを取り巻く人々。
続いて、「4時間」のゼッケンに付いていく人々。
最後に、「4時間30分」のペースメーカーに群がる人々だ。
この大会では親切なことに、以上3つのペースで走ってくれるペースメーカーが、各ペース毎に約3人ずついた。しかも最後まで走ってくれるという。
私はとりあえず、4時間30分の集団に属することにした。
しかし、6時間切れればやっとの私にとって、4時間30分は辛いのでは?
その通りである。しかし私には勝算があった。
途中まで、少なくともハーフまでは4時間30分の人についていく。この時点で21.0975kmを2時間15分。
残り21.0975kmは3時間45分もある。1km10分で走っても十分間に合う計算だ。
だがこれくらいの長距離になってくると、ペースを下げたからといってコンスタントなペースで走れる距離が長くなるわけではないことを知っていた。
1kmを7分で走っても8分で走っても、20kmも走れば消費体力は殆ど変わらないのだ。
それに練習時は大体、1km6分台、つまり42km4時間半前後のペースで走っていた。フルでは走ったことなかったけれども、ハーフならなんとかいけそうだ。
自分で立てた計画をその通りに遂行できたとき、私は人一倍悦びを感じる。そしてそのためだったら努力できる。
私は4時間30分のペースメーカーにぴったりとくっついていた。普通の声で会話が出来るほどぴったりだったと思う。
ペースメーカーを務めていたのは、私の父親より少し年配と思われるくらいの年頃の男性陣。
1km毎に刻むタイムは概ね、±10秒以内。当然と言えば当然かもしれないが、十分職人技だ。
私たちを囲む人の多くは、ペースメーカーの方と同じくらいの年配の方が多かったが、
20代と思われる女性で、学校の先生もいたし(生徒が沿道で応援してた)、私と同年代のお兄さん達も混じっていた。
ゼロ距離で固まりになっているだけでもおよそ20人。この一団は15kmを過ぎた辺りではまだ崩れない。
私もこのあたりではまだ大丈夫。むしろランナーズ・ハイに入っていたのでえもいわれぬ気持ちよさ。
20kmを過ぎた辺りで、結束力が高いこの一団も徐々に崩れていく。一人、またひとり。
ペースメーカーがいなくなれば、当然自分でペースを掴まなければならない。
しかも、「4時間30分」は一番遅いペースメーカーだ。これに着いていけなくなるということは、即、デッドラインの6時間との闘いを意味する。
ハーフを越えた時点で、きっかり2時間15分。この時点ではまだまだいける、そう思っていた。
しかし、28km地点で、ランナーズ・ハイが終わった私を待ち受けていたのは、激烈な足首痛だった。
これがとにかく、痛い。足を捻ったとかそういうものではない。単純に、脚が走りすぎを訴えているだけである。
それまでペースメーカーの半径1m以内にいた私は、その席を明け渡し、少しずつ後退していく。
500mもしないうちに、集団に置いてきぼりにされてしまった。
されどこれも、作戦の内なのだ。気落ちすることなく走り続ければよい。
走り続ける…?
いや、走っていられたのは、32km付近までだった。気がつくと、3時間30分が経過している。
つまりこの75分で走れたのは高々10km程度だった。1km平均7分半と、確実に遅くなっている。
風雨が増し、起伏も続く。
沿道にいたはずの声援は、前の人たちを見送ってからは中に引っ込んでしまったのだろうか、殆どいない。
孤独であることが、何よりも堪えるのだ。
10分に1人くらいの割合で、私を抜いていくランナーに遭遇した。抜かれていると言うのに私は、彼らに会えたことが嬉しくてたまらなかった。
もう一つの頼りは、給水所のおばさんたち。
フルマラソンのコース中に全部で15ある給水所。走る前は「こんなにもあるのか、どうせ全部は使わんだろう」とたかをくくっていた。
が、今となっては、無くてはならない存在。間違いなく、給水所依存症に冒されていたに違いない。
給水所に辿り着くたびにかけられる労いの言葉。
「水とポカリ、どっちがいい?それともあったかいお茶にしようか?」
「バナナと黒糖も食べてきな!」
「脚、スプレーで冷やしてあげるわ」
私の必死の形相を見た人からは、「ここでゆっくり休んでいけば」「棄権してもいいんだよ?」とも言われたが、
ここまで来たらもう走るしかない。止まったら負けだ、とにかく脚を動かさねば。
そんな思いで一歩一歩体を前に出す。もはや普通に歩く人よりも遅かったが、それでも。
それでも何とか、40km地点、最後の給水所を通過。この時点で5時間を少し過ぎたくらい。よっぽどのことがなければ6時間完走できる。
私は満身創痍ではあったがいくばくか安堵して、ゴールに向かい歩武を進めた。あとはもう、ゴール出来ればそれでいい。
けれども神様は、最後のドラマをお与えになったのである。
42km地点。私の隣を、一人のお兄さんが通り抜けていったのだ。
「このお兄さんは…もしかして、あの!!」
私は大会前日、もらったパンフレットを見てどんな面子がフルマラソンに出るのかチェックしていた。
名簿の一番初めに、「フルマラソン男子30歳未満の部」。総勢60人。
所属クラブ名が「JA種子・屋久」という、いかにも駆り出された人々が10人以上いたのはご愛嬌。
それより私が注目したのは、大学生の出場者だ。
私も含めて大学生の出場者は10人くらいおり、こんな遠い所からはるばる、という人や、多分日本人の殆どが認知しているであろう大学の人もいた。
私はそんな彼らのゼッケンナンバーをあらかじめ、記憶しておいたのだ。
その時私が見たゼッケンナンバーは、間違いなく、昨日覚えたそれの一つだった。
それが分かった瞬間。私の心の底から何かが、こみ上げてくる。
その中身はすぐには分からなかった。が、無意識にお兄さんを抜き返す私を見つけたとき、それは明らかになった。
「この人だけには、勝ちたい!!」
間もなく、再び追い返されて、デッドヒートが勃発。こっちもすかさず追い抜く。また追い返される。
気がついたら全力疾走。こんな走りをするだけの体力が一体どこにあったのか、今でも分からない。
残り100mの表示板が、まるで50m走してる大学生2人を見送った。
ゆるやかな下り坂が、私たちを加速させる。
あまりの勢いにこの時、42.1kmずっとかぶっていた帽子が飛んでいってしまったが、もはやなりふり構ってはいられない。
今はただ、彼に勝たなくてはならないのだ。
しかし。
残り50mと言う所で、お兄さんはさらに加速。
もう何度目の加速だろうか。私も必死に追う。
が、追いつかない。追いつけない。
あぁ、いつも最後の伸びが足りないんだよな、俺。
そう思った刹那、お兄さんがゴールイン。
その2秒後に、私もゴールイン。
5時間29分46秒の旅が今、終わった―
☆戦いを終えて…
完走した時は、何も考えられなかった。しばらく雨に打たれて、
「あ、そうだ。完走証取りに行かなくちゃ」
と思い出し、テントに赴く。
「はい、どうぞ」
渡された完走証には、タイムと順位が書かれていた。
フルマラソン全体(男女合わせて)では、300人強の中、180番台。この後ゴールを眺めていた限りでは、50人以上が6時間以内に走れなかったようだ。
驚いたのが、フルマラソン30歳未満男子の中では、概ね中央の順位だったこと。
つまり、この層がフルマラソン全体に比べて遅かったということである。
おいおい、この層が一番速いはずだろ、常識的に考えて。
確かにそうだし、実際フルマラソンの1位はこの層から出ているのだ。けれども彼らを除けば、ことフルマラソンに関しては素人の集団である。
そのためにたとえば、若い頃から走る事を趣味としていて何度もフルマラソンに出てるような50代のおじさんの方が、
素人の若人よりも速いという現象が起こっていたのだった。
参加者ら更衣用テントでは、先ほど一騎打ちの末私を負かした、某大学のお兄さんの一団と会話していた。
聞けば彼らは、大学のサークル(決して走るためのサークルではない)の有志4人が集まって、種子島からはるばるやってきたのだという。
私みたく、独りで種子島に走りに来る奴はあまりおらず、特に大学生は仲間同士で行くのがセオリーなのだろう。
この後はフェリーに乗って屋久島にも行くと行っていたな。楽しそうだねぇ。
ただ、4人の内1人が7時間を過ぎてもゴールに辿りついてなかった。
私はその前に無料送迎バスに乗って会場を後にしたから詳しくは分からないが、多分フェリーはキャンセルしたんだろうな。
無料送迎バスで中種子町の中心まで送ってもらった私は、近辺の旅館で一泊し、翌日飛行機で再び本州へ戻ったのだった・・・
種子島…ロケットマラソンは天候的にドンマイだったが、正直、これが完走できたことで、どんなフルマラソンでも多分大丈夫だろう。
というわけで、またどこかでフルマラソンを走りたいと、強く思う。手始めに、来年の東京マラソンに応募してみることにしよう。